雪のアムステルダム
日本から戻って来たら、オランダは一面真っ白であった。 運河も凍り、手袋なしでは手が痛い。 今年の年明けは地元の薬師というお寺に夜中に初詣に行った。 そこは6号国道に面した、小さな寺であるが、子供の頃には幼稚園もやっていて通ったところであった。 今では毎年の初詣客で、元旦の夜中には長蛇の列ができる。 彼にとっては、生まれて初めての「花火のない」静かな年越しであった。 元旦には筑波山の麓近くの、母の実家に行き、「ゆず」を取るという日本でしかできないことをした。 日本の冬の香りを胸いっぱいに満喫した。 こうして写真で見ると、日本の冬の日差しはほんとうに明るくて、暖冬とはいえ、心が晴れる。
オランダの秋色
最近、空気がめっきり冷たくなった。 こんな色に紅葉していた葉も落ちてしまい、冬がやってくるなあ、という気配。 最近オランダにはたくさんのブラウン・ビールがあることを発見。 グロールシュ、バヴァーリアのメーカーも秋のボックビールというのを出していたけれど、各地の醸造所でボックビールを作っているらしい。リカーショップに行くと、オランダで製作されたもの、ベルギー製のもの、とたくさん売っていた。 「ボック」というのは雄ヤギのことで、なぜかブラウンビールのネーミングになっている。 オランダ製のものをいくつか、買って味見してみた。 ちょっと苦みがあるけれど、美味しかった。
解き放つこと
10月には、パレルモにも行ったり、その後すぐに、ギターのダリオがアムステルダムに来て、演奏会があったりで、仕事本格的に再開し始めた。託児所のおかげもあり、うまく軌道にのってきた。 パレルモから戻り、朝の飛行機でアムステルダムに到着してまっすぐ託児所へ子供の顔を見に行く。 そうしたら、子供のほうは、「ん?」という顔。 きょろきょろして、「あれ、この人誰だっけ?」 という顔。・・・・・ちょっとショックだった。でもこれは実は託児所に迎えにいったときのいつもの反応でもあった。 それでも授乳していて少ししたら、ニコニコして、遊びだした。ホッ。。。 忘れもしない10月15日、夕方子供を託児所に迎えにいったときには、私を見たとたん、ニコーっと笑って、両腕を差し出して来た。 「あー! 私のことわかってくれた!」 ・・・ということで、やっと5ヶ月を過ぎて私の顔を覚えて? 認識してくれたのだ。 それから最近、ひとりで哺乳瓶を支えてミルクを飲むことができるようになってきた。 ある日、赤ちゃん用の椅子(背もたれがゆるい)にいる息子に、哺乳瓶を託して一人で飲ませてみた。 そうしたら、飲んでいる。。。 いつもは自分の膝の上に抱いて、上から顔を覗き込む風景であったのが、その日は椅子に座る子供に正面から対面する。 それがまた、初めてのことで、なんだかむずむずとしてきた。なぜか。。。何かヘンだ。。。寂しいのだ。 自分の膝の上に抱かなくても、一人で私から離れたところで、ミルクを飲んでいる。接触がなく、一人でこなしている。「もう私を必要としていない」というような気持ちになる。もちろんそんなはずはないのだが、一つづつ、出来なかったことが出来るようになり、べったりくっついていた赤ちゃんだった存在から、離れていくような気がした。そこで、「でも抱っこしてあげようかな。そうして目を見て飲ませるほうが、愛情が伝わるかな?」と一瞬考える。 「待てよ、でも出来る事をやらせることも大事なのかも」 と、そのときは一人で飲ませる事にした。自分が抱っこして触れていたいというだけで、どちらが子供にとって良いことなのかと考えると、独り立ちさせることは大事に違いない。 ミルクを飲む、という当たり前でささいなことかもしれないのだが、ここで、一人で飲ませる小さな決断は、あえて自分から放れてさせることを受け入れて、がまんした日であった。
パレルモ市での滞在
パレルモに来たのはなんと3度目。・・・・の正直で、演奏会が実現してとても嬉しい。 演奏会は非常にうまくいき、音響がとくになんといっても、素晴らしかったので、ギターとフォルテピアノの溶け合う音色に耳を任せて楽しむ事ができた。そして良い新聞批評をいただいて、とても嬉しかった。 パレルモ市は、何度来ても車の多さに少しへきえきする。オランダで1、2ヶ月前くらいに、パレルモの道路のゴミ収集の仕事に従事する人たちのストライキのため、ゴミが2週間近く収集されず、街の中がゴミの山である、というニュースを見ていたので、え、今もストライキ中?と一瞬思ったくらい、あちこちのゴミ袋の山が目につくのが、とっても残念なところであると思う。 大通りのショッピングストリートの近くにホテルがあり、オランダよりもずっとファッショナブルな靴やバッグや洋服や、様々なお店のウインドウショッピングをして楽しんだ。オランダもここ数年、オランダ人女性の服装が昔よりずっとフェミニンな傾向のスタイルになってきたと思うけれど、イタリアのエレガントで洗練された、線の柔らかなデザインが多いのを見ると、オランダにこういうの、ないよなあ、、と何度もため息であった。 出産後はじめて、4日間、子供から離れて滞在。 それはとてもヘンで不自然な感覚であった。到着した次の日から、子供に会いたくて抱っこしたくて、しかたがなかった。でも子供を連れて来ていたら、やはり演奏会に集中しきれなかったかもしれない。4日間のうち、3日間たまたま託児所がある日であったが、彼がしっかり子供の世話をしてくれた。 おかげさまで演奏会はうまくいった。
サルデーニャでの思い出
・・・サルデーニャ滞在中の演奏会はもう一ヶ月も前になるが、古い教会の石に響く音響の中、なごやかな雰囲気の中でうまくいった。 サルデーニャで思い出に残っている「顔」が二つある。 ひとつは、演奏会があった1321年建立の教会の中で、正面の祭壇の壁に、古く、色あせかかっている天使が何人(どう数えるのかしら?)かあり、その中のひとりの天使の表情である。こぎれいで美しい天使と言う感じではなく、すこしぎょっとするような、古くてすごみが感じられた顔であった。 もうひとつの顔・・・は教会の管理人をしているカルロスさんである。 毎日来たときと帰るときに鍵を開け閉めしてくれた。私が一人で練習をしていた時に、カルロスが入って来て、「君、歌の伴奏もするかい?」らしき事をイタリア語で話しかけてきた。(そう理解した) 「はい、シューベルトとか、モーツァルトとか?」 「うーん、、、そういうのじゃなくて、アンドレ、とか」 「アンドレ?」 「・・・・」 アンドレというのは、イタリアで流行っている歌手らしい。年代は調べていないけれど、歌謡曲か、、演歌系か。。でも知らなかったから、何か歌いたそうなのを感じたので、うーん、どうしよう「イタリア人の知っている歌、、、」と、安易にオー・ソーレ・ミオを弾いてみた。そうしたら、歌いだした! 気持ち良さそうに一回歌い終わって、もっと、、という顔をしているので、さて困った。 もう一曲、、そうそうこれもあった、と「帰れソレントへ」を伴奏したら、歌ってくれた。 カルロスさんに「クレメンティって知ってる?」と聞いたら、「オエー・・・」という顔をした。 イギリスに渡ったクレメンティは、もうイタリア人ではない、と。確かにイタリアの音楽というよりは、イギリスの影響のほうが色濃く出ているからカルロスさんの気持ちはよくわかる。イタリア人はやはり、明るく、朗々と歌いたいのだなあと思う。クレメンティは少し暗い影がある作曲家で、私はそこが好きなのだけれど、サルデーニャにはやはりあまり似合わない。 オランダに住んでいて、イギリスからも近い曇りの日が多い北ヨーロッパでは、クレメンティもしっくりくる。 自分ももし、イタリアに10年住んでいたら、クレメンティなんて、、、と思うのだろうか。
エラールのテーブルピアノ
今回の演奏会は、シシリー出身のギタリスト、ダリオ・マカルーソとのデュオ。 使われたフォルテピアノは、フランスのエラールというメーカーの1805年製テーブルピアノである。 ペダルが4本あり、5オクターブ半の音域。 プログラムにはフランスものもあり、18世紀の通奏低音伴奏の作品にもわりとよかったので、私達のプログラムにはぴったりのものであった。 やはりオリジナルの楽器の音色は、楽器から漂う香りがある。ダリオもやはりオリジナルは味わいが良い、と気に入っている。ペダル2本は使えなかったがコンディションはまあまあ、でもタッチの調整はされていないようだった。 が、演奏会前日になり、雨の一日というお天気のせいか、調整の悪かった部分がさらにひどくなり、いくつかの音が出なくなってしまった。オーガナイザーに楽器の調整をお願いしたい、と頼んでおいたので、演奏会当日の朝、カリアリ市の楽器製作家、 Marco Carrerasさんが来てくれた。最初の日のリハーサルの時に、奇麗に調律されているなあ、と思っていたので、マルコさんは私の調整の希望をわかってくれるだろう、、と思っていた。そして念入りに丁寧につきあってくれて、楽器はずっと弾きやすくなった。カレーラスさんは、チェンバロも制作し、フォルテピアノもシュタインモデルを製作したそうである。 主に、弦からハンマーの跳ね上がる最高位置への距離がばらばらだったのが原因だったのだが、イギリス、ブロードウッドのテーブルピアノは18世紀のものでも、ねじがついていて、手で簡単に高さを変えることができたはずだった。でもエラールにはそのねじがなかったので、鍵盤の手前の方で固定してあるポイントに、薄い紙を入れたり出したりして調節した。 楽器調整中いくつかのイタリア語の単語を覚えた。。。 アルト(上に)、バッソ(下に)、ベーネ(良い)、ノン・ベーネ(良くない)、メイヨー(より良い)。。。 イタリア語はとってもメロディアスで、よどみなく流れるように聞こえる。 話せたらいいなあ、、、と強く思う。
子連れ旅行 サルデーニャ島
もう2週間も前の話であるが、イタリアのサルデーニャ島が5ヶ月になるうちの子の初めての飛行機での海外旅行であった。 なんといっても荷造りに一週間以上まえから私が緊張。 気候はどうか、熱がでたらどうしたらいいのか、何枚の洋服、下着が必要か、いくつのおむつが必要か、飛行機に乗るときに粉ミルクを作るためのお水を持ち込めるのか。。。ホテルにキッチンはあるのか、哺乳瓶の煮沸消毒はできるのか、冷蔵庫で母乳を保存することもできるだろうか。。。 結局彼と二人でもてる限りの荷物となり、キャスター付きのスーツケースが大小3つ、ふたりともリュックを背負い、さらにベビーバギーを押し、車用のチャイルドシートも持参した。リュックを背に、片手でバギー、もう片方の手でスーツケースみたいな感じである。 電子レンジと冷蔵庫は使える、という話を聞いたが、お湯を湧かせるような旅行用の器具も持参。 哺乳瓶を洗うかもしれない小さなボールも持参。。。 産後初復帰の演奏会があったため、演奏会用の衣装と靴、楽譜に、一応録音できるようマイク、録音機、楽譜、これだけでも気をつかう。六泊七日の滞在のため、おむつはひとパック(40個入りまるごと)用意。母乳をリハーサルの合間にあげられるかどうかわからないので、粉ミルクも25回分程もっていく。サルデーニャに行くにはアムステルダムからローマで乗り継ぎしなければならなかったので、機内持ち込み荷物にも粉ミルクは2回分入れる。ミルクをどこで作るかもわからないので、ミルク用の一度煮立てた水の他に小さな魔法瓶に熱いお湯を入れていく。荷物検査では、赤ん坊がいると意外とすんなりと、お水も持たせてくれた。ホッ。。。 途中の小さなハプニング。到着までのあいだに、子供がうんちをして、つなぎの肌着を汚す!!! そして、着替えの下着を持っていなかったことが発覚。(ママ注意足りませんでした) すべてスーツケースの中に真空になるように必死に詰めたところだった。ミルクとおむつはばっちりだったのに。かわいそうに、汚れたのが、乾いて、、、そのまま到着。途中空港で買おうかとも思ったが、そういうものは売っていなかったのもあり、もういいや、、と買わなかった。 到着時のハプニング! 彼の荷物が紛失。 私のドレスや演奏会のもの、子供のおむつなど必要なものは全て到着したのでまだよかった。(荷物は3日目の夜に戻った) ホテル(B&B)は4月に改装したばかりの奇麗なところで、子供用のベッドも用意してくれていたので一安心。 到着した晩、持ってきた粉石鹸で汚れた子供の肌着を手洗いして、バスルームにひもを張って干す。 がオランダのようにはすぐに乾かない。 そうだ、外に干してしまえ。小さなバルコニーがあったので、あまり外から見えないように3日目の日中に干す。 その日の夜、鳩がフンをした! やっと乾きかけていたのに。 よく見ると、バルコニーはすでに鳩の落とし物で汚れていたので、予測できたかもしれない。洋服はなんとか足りそうだったので、演奏会の前日にはあきらめ、なま乾きでフンつきの哀れな洗濯物はそのままオランダへ持ち帰った。
動物がいっぱい
素敵な大きな絵本をいただいた。子供のためにたくさんのお祝いをいただいているが、この大きな絵本は動物がどのページにもぎっっっしり。木版画っぽい輪郭で描かれている、テクニックのことはよくわからない。 「海の動物」、「巨大な動物と小動物」、「白と黒の動物」、「夜の動物」、、、ぎゅうぎゅうとページいっぱいにひしめく、どれも違う形、大きさ、色。 絵本の大きさが子供と同じくらい。目の前いっぱいに広がる世界に、興味を示す。。。が、掴んで壊さないでねー!
Böhmのフォルテピアノ
前にも話題にでた、Gijs Wilderomさんの工房に、修復中のウィーン式フォルテピアノがある。 最近、何度か弾かせてもらったが、とてもインスパイアされる楽器である。 数ヶ月前に弾かせてもらったときに今ひとつ鳴りに抵抗感があった。ハイスさんの中でもひっかかっていたらしく、ある部分を全部やりなおしたそうで、ずっとよくなった!楽器の修復の小さな作業は、すべての音にやりなおし、となると膨大な仕事である。でも、インスピレーションを信じてやりなおした決断はすばらしい。 なんて音楽的な楽器。というのは変な感想かもしれないが、思った音色が指先を通して、反応しやすく、しなやかにかえってくる。鳴りもとってもナチュラルになり、ウィーン式の軽さをもちながらも、スカスカしない「singing tone」のつまった音。 ハンマーシャンクに使用した洋梨の木は、オランダの果物畑といわれているBetuwe地方のものとのこと。 ポイントは、「蒸気処理をしていない木材」であることだそう。 18、19世紀のハンマーシャンクも梨の木はよく使われ、蒸気を通していないものであったらしい。そのほうが、強く、かつ、しなりがよく、強いタッチを受け止めて楽器を鳴らすのに、優秀らしい。そこで、蒸気を通してあると、微妙に木が柔らかく、楽器の鳴りにはマイナス点となる。 さて、この楽器はJoseph Böhm というウィーンのメーカーにほぼ間違いないと思われるが、ネームプレート(メーカーの銘柄の書いてあるボード)がない。 しかし、楽器の形、スタイル、ネームプレートのあるBöhmと比べることによってほぼそのようである。 もうひとつ証拠として、N.Y.のメトロポリタン博物館にあるBöhmとの共通点がある。 それは、楽器のメカニックを取り出したときに見ることができる、内蔵のベリーレイル(ピアノの内部、ハンマーのメカニックの背後にある支えの木材)に、鉛筆書きの「サイン」があった。 メトロポリタン博物館のBöhmとハイスさんの楽器の内部の同じところに同じ形のサインが!(下の写真のうち、上がメトロポリタン博物館の楽器。光っていて少し見にくいが、、確かにありました。) ハイスさんによると、「合格」とか「オーケー」みたいな意味ではないかとのことである。 製作家Böhmが自ら、鉛筆でサインしたものかもしれないと思うと、ゾクゾクする。
オランダの託児所
託児所の「慣れ期間」が始まった。 週に3回申し込み、朝8時/9時から夕方6時まで。だが今は一日5時間から始め、一週間ごとにに6時間、7時間、9時間と長くしていく。この期間は「母親のため」にあるそうだ。子供は自然に慣れていくものだが、母親にとっては初めての「お別れ」。 一日目・ ・・預けた後、ずっと子供のことが頭から離れず、のんびりできない。 戻ってくると、ちっとも眠れなかったらしい。 いつもと違う環境だからしょうがないが、泣いていたのかと思うと可哀想になる。 ベイビーグループは、オランダ人の保母さん一人、モロッコ人が三、四人働いており、一人は有色人種の女性。自分の子供がまったく異文化の人に面倒見てもらい、一緒に育てていく(と託児所の方はいう)ことになるとは、想像もしていなかった。 有色人種の女性は、ケニア出身のメロディーさん。でも一人一人話していくと、皆とっても心の良い方たちで、本当に子供をかわいがってくれる。 モロッコ人の保母さんが多いのは、実はちょっと知られていることらしく、 大家族に慣れていて、子供の扱いが皆、上手だそう。 本当にそうで、何度か行くうちに、保母さんへの信頼感が増してきて、安心してきた。 言葉や文化が違っても、赤ちゃんだからこそ、心と話しかけのイントネーションでちゃんと通じるみたい。 そして子供が、保母さんに笑いかけている。 アムステルダム育ちは、国際的になるかしら? 両親や義父母に頼らない、アムステルダムの若いパパ、ママさん達にとっては、託児所の利用はごく普通なことである。 ひと月約800ユーロ(週に3日)かかるが、約半分(またはそれ以上)が国から戻ってくる。 最初は子供を預ける罪悪感みたいなものが一杯だったが、働かなければならないし、音楽の時間に使わせてもらえる環境に感謝である。